矢口祐人お知らせ

 

 

1966年、札幌市白石区生まれ。キリスト教のメノナイトメノナイト

16世紀初頭のヨーロッパにおける宗教改革の流れから生まれた一派で、幼児洗礼の否定と聖書中心主義を信仰の基盤としています。とりわけ新約聖書にあるイエス・キリストの教えに従い、権力と富を疑い、質素さを重んじ、徹底した平和主義を大切にします。同じ流れに現代文明から距離を置き、自動車の所有や家庭での電気の利用すら拒否するアーミッシュがありますが、学校教育を重んじる点で大きく異なります。メノナイトは当初から異端としてヨーロッパで迫害を受け、18世紀以降、信者の多くがアメリカに渡りました。現在、アメリカに60万、全世界に200万人ほどいます。日本の信者数は少ないものの、私の父親は1950年代に北海道釧路市でメノナイトの宣教師に出会いました。アメリカとカナダにはゴーシエン大学のようなメノナイトの大学と神学校がいくつかあります。
なお、私は文化的にはメノナイトの影響を受けていますが、神学的な知識や関心は限定的です。
教会の家庭で育ちました。教会、祈祷会、日曜学校、聖書、賛美歌が中心の生活で、「普通の日本人」とはいささか異なる環境でした。七五三も初詣もお盆も体験せずに育ちました。「日本人」は誰でも同じ価値感を共有しているわけではないことを、幼いときから感じて育ったこの体験は、後に自分が文化とは何かを研究しようとするひとつの動機にもなりました。

札幌市立本通小学校5年生の時に、親の仕事の都合で、10ヶ月間、アメリカニューヨーク州バッファロー市郊外のトナワンダという町に住みました。英語が全くできない状態で、誰も日本語を話さない小学校に通いました。語学も苦労しましたが、それ以上にアメリカの日常生活を理解できないことが大変でした。例えば、当時の日本の小学校で絵を描くときには「人物」「静物」「風景」などのテーマが与えられるのが普通でした。ところがこのアメリカの小学校では何でも自由に描いて良いのです。そのことがわからず、クラスメートが描く絵を見ながら、何をしてよいのかわからず途方に暮れました。このような混乱の記憶も、後にアメリカの文化を学ぼうとしたことにつながったのかもしれません。

帰国後、札幌市内の公立小中高を卒業後、北海道大学に進学したものの、3年次進級とともに休学し、そのまま中退しました。代わりにアメリカインディアナ州北部の小さな町にあるメノナイト派の学校であるゴーシエン大学(Goshen College)に編入し、1989年に卒業しました(English専攻/TESOL副専攻)。ゴーシエンは在学生が1000人にも満たない小さな大学で、学生の大半がキャンパスに住むリベラル・アーツ・カレッジリベラル・アーツ・カレッジ

基本的に大学院を持たない、教養(リベラル・アーツ)教育を重視する大学。小規模の授業が一般的で、教員と学生の距離が近く、ディスカッションを重視しながらクリティカル・シンキング(批判的思考)を涵養することを目指します。学位は教養学士(Bachelor of Arts)のみであることが一般的です。理系・文系を問わず大半の学問領域を専攻できますが、実際には卒業までさまざまな分野の授業を履修します。複数の分野を専攻することもできますし、多様な科目を組み合わせて自分の専攻を作ることも可能です。学生の多くはキャンパスの寮に住み、学食住接近の生活を送ります。国際交流にも力を入れていることが多く、Goshen Collegeではすでに1980年代から留学生を除く学生全員が一学期海外留学することが義務付けられていました。
です。英語もあまりできず、授業でもほとんど発言ができないこの日本から来た学生を教授たちは優しく、根気よく教えてくれました。レポートを出すと、すぐにたくさんのコメントともに戻ってきて、再提出が許されました。ゴーシエン大学で初めて勉強する楽しさを学びました。

その後、インディアナ州に進出していた日系企業Precision Tools Service Inc. (株式会社東洋の海外拠点)で一年間働き、サラリーマンとしての生活を日本人駐在員から学びました。そして1990年秋にバージニア州ウィリアムスバーグ(Williamsburg)ウィリアムスバーグ

アメリカの発祥はボストンなどのニューイングランドと思われがちです。しかしイギリス人が最初に定住したのはバージニア植民地で、ウィリアムスバーグはその首都でした。ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、ジェームズ・マディソン、ジェームズ・モンローなど、のちのアメリカ大統領となる指導者はもともとバージニア植民地の政治家としてウィリアムスバーグでアメリカ独立の是非を論じていました。独立後は寂れた小村となったこのウィリアムスバーグは、20世紀初めにロックフェラー家の財政支援のもと、18世紀の独立革命期の街並みを再現する「コロニアル・ウィリアムスバーグ」という屋外博物館となりました。1693年に設立されたウィリアム・アンド・メアリ大学はジェファーソンやモンローなどが学んだことで知られる大学で、このコロニアル・ウィリアムスバーグの南端に位置しています。
にあるウィリアム・アンド・メアリ大学(College of William and Mary)大学院のアメリカ研究アメリカ研究

アメリカの社会と文化を学際的に考察しようとする研究。アメリカにおける人種、エスニシティ、ジェンダー、クラスなど、社会を理解するのに重要なテーマを歴史、文学、社会学、人類学、哲学などの研究分野の手法を織り交ぜながら研究するものが多くあります。アメリカの学会はAmerican Studies Associationで、American Quarterlyが主要な学術誌です。日本にはアメリカ学会があります。
プログラムに入学し、修士・博士課程を終えました。在学時代はアメリカ美術史を専門とするMargaretta Lovell教授のもとでマテリアル・カルチャーマテリアル・カルチャー

「もの」から社会を考察する研究分野。日常的に使用するあらゆるものを丁寧に観察し、その歴史的変遷をたどりながら、そこから人間の生活を考えます。有名な建築家による豪華な建物より、名もない人びとが建てた家屋を詳細に分析して、そこから住人の生活の在り方や意識を想像しようとする社会史のひとつの方法にもなっています。
、アメリカ文化史を中心に研究をしました。

1995年4月に北海道大学言語文化部専任講師として採用され、教養課程の英語を担当しました。98年4月に東京大学大学院総合文化研究科(教養学部)に移り、駒場キャンパスで英語とアメリカ研究を教えることになりました。英語教員としては統一教材On Campus/Campus Wide(東京大学出版会)の執筆とビデオ教材の作成に尽力しました。学外ではNHKの3ヶ月トピック英会話3ヶ月トピック英会話

「まるごと体感、ハワイアンロハス」。矢口が講師をつとめ、モデルの市川沙耶さんがパートナーとして出演。市川さんがハワイを訪れ、地元の人びとをインタビューした際の会話をそのまま教材に使いました。毎週、アロハシャツ、フラ、コーヒー、ロコモコ、サーフィンなど、ハワイの文化をとりあげました。生活のなかの「ほんもの」の英語ですから、聞き取りが難しいこともありましたが、ハワイの人びとが話す生の声を英語学習に利用するという画期的なプログラムとなりました。
の講師をつとめました。一方、アメリカ研究の分野ではアメリカ文化論、日米文化論、太平洋島嶼研究などを担当し、学部生と大学院生の卒論・修士論文・博士論文の指導をしています。また、2012年には東京大学初の学部英語学位プログラムPEAKPEAK(Programs in English at Komaba) 

2012年より東京大学教養学部(駒場キャンパス)で始められた、英語だけで卒業学位が取れる学部プログラム。東京大学の学部留学生を増やし、多様化するために始められました。入学後の日本語履修は必須ですが、受験時には日本語能力を問いません。環境研究と日本・アジア研究の二つのコースがあります。このプログラムにより、20カ国を超える学生が東京大学の学部生として学ぶようになりました。
の設立に関わりました。2013年には総合文化研究科に新設された国際交流センター長・教授となり、2018年からは大学本部に新設された国際化教育支援室の室長として、大学全体の国際化に関わる業務にあたっています。

1997年に友人の吉原真里氏がハワイ大学のアメリカ研究学部の教員となったのを機に、ハワイに興味を持つようになりました。「単なるリゾート地」と見なされがちのハワイは、アメリカと帝国、先住民の権利、移民、軍事的覇権、開発と観光など、アメリカ研究のキーテーマを考えるのに非常に重要なところです。したがって、研究の関心はハワイに限定されたものではなく、アメリカ文化・日米文化史全般にあります。とりわけ過去がいかに記憶されるかに関心を持ち、アメリカのミュージアムミュージアム

日本では美術館、博物館、動物園、水族館を含むものがミュージアムとされます。ミュージアムは近代社会の価値観を反映しながらも、その価値を強化し、さらには生み出すものでもあります。ミュージアムを研究することで、その社会のさまざまな側面が考察できますが、私はとりわけミュージアムが社会の記憶の形成と維持にどのような役割を果たしているかに関心があります。
や記念碑などの考察をしています。また個人的な体験から「アメリカの宗教」や「グローバリゼーションと大学」というテーマにも興味があります。

 
 
 

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